鶴崎おどり保存会の歩み

History of the Tsurusaki Dance Preservation Society

戦国時代より踊り伝えられた鶴崎踊は、大正12年に久邇宮良子くにのみやながこ女王(後の香淳こうじゅん皇后)に、大分県の代表的な伝統芸能としてご覧いただく機会を得て、全国的にも知られようになりました。

これを機に、鶴崎踊がより一層発展するようにと大正13年8月22日に、町役場・町民をあげて鶴崎おどり保存会を発足いたしました。

その後、昭和54年に大分市無形民俗文化財に指定、昭和56年には大分県無形民俗文化財となり、昭和61年に国の無形民俗文化財に選択され、今日では大分県を代表する郷土民俗芸能となっております。

鶴崎踊には、しっとりと優雅な「猿丸太夫」と軽快なテンポの「左衛門」の二つの踊りがあります。現在は、猿丸太夫を主に踊っておりますが、歴史的には左衛門の方が古く、 鶴崎では昔から左衛門のことを三つ拍子とも呼んでいました。

踊りの起源は、「大友記」「西国盛衰記」から推察しますと、遠く永禄3年のころ、西暦で言いますと1560年ころに遡ります。時の豊後の国主大友義鎮公(後の大友宗麟公)は、一時遊興にふけって政治を省みないことがありました。

重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)は、これを諌めようとしますが、なかなか会うこともできません。
そこで、面会の機会を作るため一計を案じ、京都から踊り子を招いて日夜踊らせ、それを聞いた義鎮公は、堅物の鑑連が踊り好きとはと不審に思い、見物に出かけました。鑑連は「三つ拍子」という踊りを踊らせ、義鎮公の機嫌のよくなったところで涙ながらに諫めたところ、忠言を聞き入れたとのことです。

この時の踊りが三つ拍子、左衛門の始まりと伝えられています。時代は変わり江戸宝永年間、西暦1704年~1711年ころ、鶴崎は肥後熊本細川氏54万石の飛び地で、藩主の江戸参勤の発着地として、「波奈之丸」をはじめ百余艘の藩船が置かれ、京・大阪との交易の港町として大変繁栄していました。

このため、町民の気質は明るく、芸能も盛んであったようです。

当時、日本各地では伊勢参り「おかげ参り」が大変流行しており、鶴崎からも伊勢参宮に赴く者が相当におりました。
それら参団の人々が「伊勢踊」を覚えて帰り、風土と相まって盛んに踊られるようになり、当地に定着したものが「猿丸太夫」ではないかと言われております。

The Tsurusaki Dance comprises two styles: the graceful and elegant “Sarumarudayu” and the lively “Saemon.” Currently, Sarumarudayu is the more commonly performed dance. Historically, however, Saemon is the older of the two and has been known in Tsurusaki since ancient times as “Mitsubyoshi.”

Saemon
The origins of the Saemon dance date back to 1560 (Eiroku 3). During this time, Yoshishige Otomo (later known as Sorin Otomo), the lord of Bungo Province, was neglecting his duties due to indulging in entertainment.

To admonish him, his chief retainer, Akitsura Bekki (later known as Dosetsu Tachibana), devised a plan. He invited dancers from Kyoto to perform day and night. Yoshishige, upon hearing that the stern Akitsura was fond of dancing, became suspicious and went to watch.

Akitsura then performed a dance called “Mitsubyoshi,” and, seeing Yoshishige in a good mood, tearfully admonished him. Yoshishige accepted his loyal advice, and it is said that this was the beginning of Mitsubyoshi, later known as Saemon.

Sarumarudayu
Today, when people refer to Tsurusaki Dance, they often mean Sarumarudayu, which is said to have originated from the Ise Dance. During the Edo period, between 1704 and 1711 (the Hoei era), Tsurusaki was a remote territory of the Hosokawa clan of Higo Kumamoto, with a landholding of 540,000 koku.

As the departure and arrival point for the daimyo’s journeys to and from Edo, Tsurusaki was home to over a hundred clan ships, including “Naminashimaru.” It flourished as a port town engaging in trade with Kyoto and Osaka.The townspeople had a cheerful disposition, and performing arts thrived.

At the time, the “Okage Mairi” pilgrimage to Ise was immensely popular across Japan, and many from Tsurusaki also traveled to Ise. These pilgrims brought back the Ise Dance, which, combined with the local culture, became widely performed and eventually settled in the area as Sarumarudayu.

鶴崎踊の踊り方

HOW TO PERFORM THE TURUSAKI DANCE

優雅な踊りの猿丸太夫(さるまるだゆう)は、12の所作。軽快なテンポの左衛門(さえもん)は7つの所作で、構成されています。 保存会では、おどり方のDVDを発売しておりますが、同じ内容が下記のサイトでもご覧いただけます。

猿丸太夫の踊り方

左衛門の踊り方

また、踊り講習会・指導者派遣も行なっておりますので詳しくは、保存会までお尋ねください。